【生と死】17年前の父の死から、生きてます。

夕暮れ時の海辺わたしごと

山梨県 北杜市。
山の麓の漢方アロマサロン ハハノウミ

お母さんが幸せであればみんな幸せになる。
ママと子どもと妊産婦さんのための
漢方アロマサロン&セラピスト養成校


オ-ナーセラピスト  
林 那津 です

 

なんで思い出しては悲しくなるんだろう
何に対してこんなに涙が溢れてくるのだろうと、真剣に考えたことがある


泣きたいときにひとりで泣く
そんな日があります

お父さん、癌になっちゃった

確か、私の成人式の日、父はまだ元気だった。真っ赤な振袖を着たまま父と二人でおなじみの食堂へお昼ご飯も食べに行った。

その年は、私の就職先も決まり
職場の近くへ引っ越し
春にむけて研修生として働いていた。

そして父から電話がくる。

明るい声で
「お父さん癌になっちゃった」

かわいがってくれたお父さん。
実家に帰らなくてはという思いに駆られ
就職したばかりの職場をすぐ辞めてしまった

私の一大事でもありました

二十歳。


この年齢なら、また再就職はできる。
周りには迷惑かけてしまうけど、仕事どころではなくなってしまったといいきかせ。

部屋も引き払い
地元の同級生の協力で2日がかりで引っ越しを手伝ってもらい実家へ住み始めた。

父の手術

手術当日。
遠くに住む父の兄弟も全員大集合です


国立がんセンターへ集まり、ご飯を持ち寄ってくれた。

みんなで手術の間一緒に過ごす
昔から穏やかで明るい大人たち

12時間の長い手術を終えた

それから数週間後、父は退院し、数か月後には仕事に復帰することもできた

私はまた実家を離れ、一人暮らしを始める

定期的に父は病院に通う。通院までの片道2時間半は、
毎回伯父さんが、父と母と私を車に乗せて乗せていってくれた

伯父と父は、一緒に家業を継いで仕事していた仲。


病院でご飯もごちそうしてくれた

半年後。。。

実家で父にマッサージをしていたら、癌が再発したと報告を受ける。

がん再発ってなんだよ。。

一人暮らしをしながらバイトして、
働きながら実家へ来ては看病の日々が始まった。

親からは、こうしてほしいという要望や、期待は特に感じず
私の気持ちの赴くままに、私の生活のペースで居てくれたらうれしいといった様子でした。

遠くの大学病院で再手術をし、
完全に癌を取り除くことはできず入退院を繰り返す父

それぞれの職場の人も融通をきかせてくれていました

闘病生活を終える

それから2年の闘病生活を終え、夏に父が亡くなった。
亡くなる日の早朝
緩和ケアの病室で寝泊まりしていた私にも限界が来ていたのを思い出す。

きっと母は、私がいてよかったと思う。
家族みんながみんな居てくれてよかった。
と思ったに違いない

離れて暮らす兄は社会人。看病している私に、お母さんと俺からって一言加え現金を渡してくれた日もありました

お見舞いに来た伯父さんは、仕事をせず父に付き添っていた私に現金を置いてってくれた。
伯父さんからしても、かけがえのない弟なんだよね。

大人になって離れて住んでいるからたまにしか会えない兄弟。

お金ってこういう風に使うんだとおもいました


感謝の表現方法でもあり、愛なんだと感じた

そのことを母に伝えたたら、伯父さんは昔お父さんにお金を借りていたことがあってね、、、という話や、兄については、看病している私に対してお金は払ってあげてね。と母にはなしてくれていたそうです。

家族みんな、ひとりひとりの心が苦しくならないように
みんながそうしてくれている。

思いやりをありがたくいただきました。

こんな大人になりたい。

ありのままで。夫婦って・・・

緩和ケアに入院中の事
父は私にはいつも通りやさしかったけど、

母には時々イライラをぶつけていた。
けど母は、動じずいつも通り平常心で明るい。

私は、母に、
「お父さんはお母さんにはキツイこというね」ってはなしたら、

母は、「お母さんだから言えるんだよ。」とサラッと一言。
いつもお父さんのイライラを受け流す母はすごいと思ったのでした。

印象的だった。

穏やかで優しい父だったから、
父が母に対する態度はわたしには意外だったけど

そういうことなんだと納得。
痛いのに、具合悪いのにいつもどおりだったから。

思い通りにいかないこともある

父が発病してから亡くなるまでの2年間は

’’人生思い通りにいかないこともある’’

ということをしみじみ思い知らされました

人よりがんばっていれば望むものは手に入り
就職に至るまで思い通りに歩むことができていた21年間でしたから。。。

20歳~22歳になるまでが看病の時期は、
行きたいところへ行きたい
やりたいことやりたい
いますぐ会いたい人だらけの多感な時期でした


自分の可能性をたくさん確かめたくて、まっすぐ夢を見ていた時

だけど父が病気になって
ショックで気持ちが暗くなり何もする気にならない

はじめて、気持ちも体も自由でいられない時があるのだと感じた日々でした

そんな若かりし頃の人生体験。

人はいつ死ぬかわからない


親もいつ具合が悪くなるかわからない


兄弟だって、

自分だって、誰だってそう

だから、今に感謝して
一度きりの人生後悔しないように大切にしていこう。

父が亡くなった後思うこと

母が元気なうちに、行きたいところへ行って、会いたい人にあって、住みたいところに住んで、結婚して子どもを授かりたいとおもいました。

想いのままに生きて、確かめて、明日死んでも後悔しない選択をすると心から思った22歳でした

父の死をもって強制的にググっと成長を促された気がします!

精神的な自立
経済的な自立

をするときなのだと感じました


時々、稼いだお金で母や伯母さんにプレゼント

私なりの親孝行の第一歩でした

家族愛の紡ぎ

18歳までに一緒に暮らした日々は
ほんとにほんとに気づきと成長の日々でもあり、

家族であれ価値観や個性もバラバラ。
全く違います。

それが当たり前に受け入れられ
暮らしていました。ほんと幸せなことです。


親孝行なんてなんもしてない。という心残り。
父が苦しいときに、
アロマセラピーで少しでも癒してあげれたかもしれない….。

ただそばにいることしかできなかったな。

自分が親になり、子育てするときは、
父と母のもとでしようと子どものころから決めていました。

なぜなら、子ども時代は居心地よかったからです

やさしくて、朝から笑い声がたくさんの食卓。
まじめで働き者。

だからなのか、子どもたちは勉強もスポーツも集中して取り組めた。

そして何より父から教わったことは

「許す」

事でした。
子どもだった私の心にとてもとても響いた記憶

これは、言葉で受け取ったものではなく

一緒に生活していて感じたこと

親子喧嘩しても、親が負けてくれることがあったから
「負ける」ことができるんです


負けるが勝ち
精神的に勝る

自分の幼さが浮き彫りになるときでした。

母は、言い過ぎないこと
考えすぎないこと


笑い声いっぱい


なんでも楽しんだもの勝ち
楽しむ心で取り組むことを教えてくれました

なかなかできないけれど
生活の中で受け取ったエッセンスを我が子へ、

そしてご縁でつながる最愛の夫へ紡いでいけたらと思うのでした。

一緒に暮らせる日は短い

親になり、子どもがいて、家族で一緒に暮らせる日々はとても短いと感じます

それぞれが自立していくときも楽しみですが

子育てをしている今がかけがえのない日々であり
いろいろなことがあっても



いつも私の基準は
後悔しない選択をすることでした。

愛の連鎖を紡ぎ
負の連鎖は潔く断ち切ります。

思い通りにいかない時でも

思い通りにいかない時は


「今は仕方ない」

と心の別室に置いておく。

相手に対して
もがいても

今、完璧を望んでも
しかたないから、

一旦あきらめて
すぐできる「今」を楽しむことに意識を向け心地よく過ごします

そしたら、急がば回れ
無理強いしなくても
ナチュラルに望んでいた日が必ずやってきた

相手を観察し
気持ちのタイミングも感じとる

根が深いものほど月日はかかるし、忍耐も必要になるけど、
ゴールは必ず幸せに向かっていると信じることができる

争うこともなくあたたかくいたって平凡な家庭の中で育ち、
こんななまぬるい環境じゃダメになるとおもい

18歳の時から親元を離れひとり暮らし、
様々な体験をして今に至ります。

自分の足で歩き、出会い繋がり
考え悩んだりしながら歩んだうえで

平凡であることがいかに幸せで
ありがたいことだったのかと思えました。

いつだって苦しいときは、
家族がいて
友人がいて
親兄弟がいて
大好きな精油と歌とギターがあって
大好きな場所がある。

自分を見失わないでいたい。

目の奥がさみしそうな人を見ては
心から幸せになってくださいね。
という気持ちでいつも願っています。

私の事を、嫌いな人、変わった人だと思ってる人、なんとも思わない人
そんなことはどうでもいいんです。

私が私を好きでいられたら
それが一番心地よいですから。

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